子どもの頃、私たちはいつも「正しい答え」を探していました。
テストには正解がありその成功率を高められれば褒められる。
でも間違えれば、やり直しを求められる。
疑問を持っていたとしても、周りにある正解に従えばなぜだか安心感があり、ルールを守れば間違わない。
そんなふうにして「答え」がある世界だったように思います。
けれど大人になると、その世界は突然終わります。
進学も、就職も、結婚も、子育ても、どれも「正解」がありません。
そして突然「あなたはどうしたい?」と問われ、誰も答えをくれなくなります。
またどの道を選んでも、あとから「これでよかったのか?」という迷いがじわじわとついてくる。
選択肢は増えたのに、なぜか安心材料は減っている。
今は、そういう時代なんだろうなと思っています。
でもふと、考えるのです。
正解がないというのは、本当に不幸なことなのだろうかと…
偉人は「自分が何も知らないことを知っている」状態を「知」の始まりだと説きました。
つまり「分からない」ということを認めたとき、人は初めて考え始める。
そして正解を与えられるのではなく、自分で選ぼうとし、自分で意味を見つけていく。
その営みこそが、私たちにしかできないことなのかもしれません。
私たちはつい、外側に「正しさ」を求めてしまいます。
SNSでの評価、誰かの成功体験、一般的な“幸せ”の定義など…
でも、そうした外の声に合わせて選んだ道は、たとえ間違っていなくてもどこかで違和感を感じる様になっているように思っていて、だからこそ「納得」とは、誰かに与えられるものではなく、自分の内側から育てていくものの様に感じてなりません。
「なぜそれを選んだのか」
「それは、自分にとって誠実な選択だったか」
その様な問いを自分の中で繰り返す。
たとえ失敗しても、「あのときの自分には、それが必要だった」と思えるなら、それはもう「正しさ」を超えた「納得」になりうるのではないでしょうか?
もちろん、間違えることもあるでしょう。
でも、それでいいのだと思います。
納得とは、「間違えないこと」ではなく、「選び直せること」を知っている状態なのかもしれません。
自分で選び、自分で考え、必要なら別の道を選び直す。
その自由に選べる選択肢があることこそが「自分の人生を生きている」という実感を与え、支えてくれているのかな?って感じています。
今の正解がない時代に必要なのは、完璧な選択をする力ではなく、迷いながらも歩き続ける力や覚悟なのかもしれません。
納得は一度で見つかるものではなく、日々の生活の中で育てていくもの。
決してはじめから整っているものではなくて、選ぶたび、立ち止まるたび、少しずつ輪郭が見えてくる、そんな静かな確かさなのかもしれません。
だからこそ、誰のものでもない自分の人生に「これでいい」と言える声を、自分自身の中に持っていたいと思う今日この頃です。
ぐっさん